決断ができない人間は、欲望が大きすぎるか、悟性が足りないのだ。
知的誠実性を問う第一歩。
「パターン」や「原則」を求めるな
私は何事にもパターンを求める傾向にある。
それは自分の頭で考えて、実地に試してしくじって、試行錯誤の末何かを成し遂げるということに自信を持てないからではないか。
現実と向き合って、真摯に応え、誠実に生きるのならば、むしろ「パターン」や「原則」あるいは「権威」に従うな、という自分自身への教訓である。
下手な考え休むに似たり
「下手な考え」はダメなのであって、考えることがダメということではない。
定跡も知らず、頭に棋譜の蓄積もないと、いくら時間をかけて次の一手を考えても無駄になってしまうが、何が「下手な考え」なのか具体的には分からないことが多く、そこは自分で見極めるしかあるまい。
私は下手な考え休むに似たりと考えてできるだけ考えずにパターン暗記で済ませることが多いので知的体力が乏しいのだと思う。考え抜かないで、答え見て覚えてそれでよしとする知的怠惰さを克服したい。
凡人は何をすればよいか
「下手な考え休むに似たり」というのはレベルが低い段階で、下手に考えこむことを指している。あるレベルまではどんどん覚えた方がいいようだ。
インプット無しにアウトプットができないように、考える力は既知の思考と知識を学んで育まれていく。
考え抜いた末の成果物とパターンの違い
「真っ当に考えるとこう」を積み重ねると得てして「パターン」や「原則」として語られるものと驚くほど似通った形に行き着いていたことに気づくのだけど、それはあくまで遡及的に見出されるものであって、予め記述されている規範に答えを求めたところで同じ形には帰着しない。